新井国際特許事務所
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「弁理士を目指すまで・・・世界一周の旅」
 
都立高校を卒業後、今でいうフリーターを経てタクシードライバーになった(23歳)。写真1は、1日の乗務を終え帰宅前のスナップ。タクシー乗務は、出発した朝から翌朝までの仕事。短くて1分足らず、長くて3時間以上の縁を持つ。喜怒哀楽を持つ老若男女が様々な人生模様を繰り広げる。心有る人がほとんどだったが、無い人もいた。狭い車内空間はそんな世界。貴重な社会勉強だった。海外放浪を夢見ながら1年間。蓄えた資金全額をトラベラーズチェックに換えたところで旅の準備が整った。
▲写真1

アメリカ行きの機上から見た灰色雲。垣間見る紺碧の空に差す光。アメリカに行く不安と期待を象徴するような光景だった。ロサンゼルス経由で東部北端のメイン州(バンガー)へ。そこで、英語の勉強をしながら、旅に備えた。メイン州から国境を越えて北上、ケベック(カナダ)へ。モントリオール、オタワ、トロントへと南下。ナイヤガラの滝に架かる橋を徒歩で渡ってバッファロー(アメリカ)へ。グレイハンドバスでニューヨークへ。写真2は、テロのため今はなき貿易センタービルの屋上で撮ったスナップ。
▲写真2

ロンドン経由でイスラエルへ。ヒースロー空港で厳しいボディチェック。日本赤軍のテロがあったためだ。キブツ・エイロンの農場でボランティアとして約4ヶ月働いた(写真3)。レバノン国境から5キロほど南の処。「UN」と書かれた国連治安維持軍の車両が往来。街には銃を携えた兵士が溢れていた。戦争状態にあるエジプトとの和平が近い、との噂。和平成立後、直ちにテレアビブへ。3日間、領事館前で野宿してビザ取得。行きずりの友とタクシーでシナイ半島を横断。砂漠の夜景に大感激。
▲写真3

明け方2時にカイロ着。外灯などほとんどなく右も左もわからない。鍵が掛かっていなかったドアを抜け、中のベンチで泥のように眠った。後から知ったが、そこは病院だった。スフィンクスはピラミッドよりずっと小さい。大きく見えるのは、遠近の違いによる(写真4)。カイロ博物館で見たツタンカーメンの黄金コレクション、圧巻だった。ツタンカーメンの墓を訪ねてルクソールの王家の谷へ。アスワンダムのあるアスワンまで南下してカイロへ戻る。ナイル川はお世辞にも綺麗とはいえなかった。
▲写真4

カイロから空路アテネへ。アテネの朝市で買ったトマトは果物のようだった。アテネからフェリーでイタリアへ。どこの街に着いたか忘れた。その街から列車でローマへ。街全体が博物館のローマからルーブル美術館のあるパリへさらなる列車の旅。モナリザの微笑みに思わず微笑まされた。寝不足のせいだろう。宗教画を見て気持ち悪くなった。スイスは本当に美しい。マッターホルンは雲にかすんでいたが、アイガーの北壁には開いた口が塞がらなかった(写真5)。ぜひ再訪したい。ビールが旨かったドイツ、アンネフランクのオランダ、アンデルセンのデンマーク等々...、思い出は尽きない。湖の国フィンランドの白夜は、ただただ明るいだけだった。
▲写真5

フィンランドのヘルシンキからバルト海を船で渡ってスウェーデンのストックホルムへ。船上から旧ソ連船が視界に入った。モスクワオリンピックに出場する選手を迎えるための船、と聞いた。日本選手は、モスクワに行けなかった。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してボイコットしたためだ。政治は難しい。写真6は、ノーベル賞が授与されるストックホルム市庁舎前におけるスナップ。後に、小柴教授や田中さんも、ここでノーべル賞を受けた。多くの日本人が受けられることを心から願う。
▲写真6

パリに戻り、マドリッド行きの車中の人となった。フランスは緑に覆われているが、国境のピレネー山脈を越えると車窓は赤茶けた風景で埋め尽くされる。イベリア半島の大部分を占めるスペインは乾燥している。そのためであろうか、ビールが異常なくらい旨かった。なんと、水より安いのである。プラド美術館に行ったときは赤ら顔であった(写真7)。行くつもりだったポルトガルのリスボンには行けなかった。列車ストが今も恨めしい。フラメンコは見たが、ファドを聴くことができなかった。
▲写真7

列車ストを横目にパリに戻った。ロンドン行きの列車に乗る。列車はそのままフェリーに載せられドーバー海峡を越えてイギリスへ(写真8)。英仏海峡トンネルが開通した今も、この風景が見られるのか否かを私は知らない。噂には聞いていたが、ロンドンっ子は味に無頓着。フィッシュ・アンド・チップスはちっともおいしくなかった。ロンドンは旅の終着駅。安いチケットを見つけて帰路に着いた。旅は続けたかったが、社会復帰に対する不安が脳裏にうかんだ。このままではいられない、と。
▲写真8

帰国後、数種の仕事に就いた。その一つ。秋葉原の免税店で5年間、外国人相手に「Made in Japan」を商った(写真9)。毎日が英語。とはいっても「ベストプライス」と「ノーモアディスカウント」の2語で足りた。よく売れたし、売れて楽しかった。今の日本製品の地位を思うに、今昔の感に堪えない。29歳のときに長女が生まれ、自分に適する職業について真剣に考えるようになった。書籍を漁り探し求めた。弁理士という職業を知ったのは、30歳になってからである。
▲写真9

弁理士には、法律と技術と語学の知識が求められる。31歳のときに転職を決意。2歳となった長女の他に妻のお腹には長男がいた。紆余曲折はあったが特許事務所への転職が叶い、受験勉強を始めた。勉強は楽ではなかったが、実務に就けた喜びがあった。合格したのは1993年。長女が小学4年、お腹にいた長男が1年になっていた。合格の翌年に芝浦工業大学の2部電気工学科に入学。40歳の手習いだ。大学在学中の1995年に独立開業。昼は仕事、夜は大学。がむしゃらに働いた。1999年に卒業。

 
気にかかること。日本のモノづくりが危ない。技術はある。しかし、ビジネスとして立ち上がらない。知財が万能選手のようにもてはやされるようになって久しい。書店には「知財戦略」なる文字を背負った書籍が並ぶ。思うに、どの本も机上の理論を述べるだけ。死の谷に苦しんでいる起業家に「強みを戦略的に特許化せよ」と説いても資金的に無理。なんとかならないか。培ったノウハウを体系化するために2006年4月東京農工大学大学院に入学。実務と調和する技術経営(MOT)の研究を行っている。

 
技術経営と実務との調和は、私の知財コンサルタントの根幹だ。ベンチャー・中小企業であると大企業であると問わず、積極的な意見を述べる。慶応義塾大学発ベンチャー企業(株式会社STAC http://stac-keio.com/)の監査役として支援も行っている。

 
これからの夢。技術経営の研究を進め、その成果を収めること。その成果を携え、日本のモノづくりに花を咲かせる花咲か爺さんになること。苦労を共にしてくれた妻(本人の固辞により写真省略)と一緒にもう一度世界一周すること。夢を実現するために日々を過ごしたいと思う。

 


 
 
 
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